越後線関屋駅 歴世礦油引き込み線の謎

鉄道

1.ふと見つけた航空写真

大型二輪の免許取るのに関屋自動車学校に通っていたんですよ。
いきなりどうでもいい話に脱線するけど、車も普通二輪も関屋で取りました。
僕が免許撮った頃はBMWで教習してたけどいつの間にか普通の車になってた。

閑話休題。

関屋自動車学校のパンフレットをふと見ているとこんな写真が。

昭和60年の空撮写真。
真ん中下辺りに車学の敷地があり、ちょっと右上には第一高校のグラウンドが見えます。
その間の右寄りに関屋駅。右が柏崎方面。左が新潟方面。
信濃川には千歳大橋建設中。

そして、注目は高校のグラウンドを切り取るように走るいかにもな廃線跡。
その先には工場があるよう。
怪しい。

パンフレットには更に昭和62年の空撮も。

車学が2階建て化され、撮影範囲も狭いため少しわかりにくいですが、高校グラウンドが拡張され、線路跡がなくなっている。

最後に平成2年。

なお、わかりにくいがこの段階では工場は残っている模様。

さて、これは何の引き込み線かというと、歴世礦油の工場の引き込み線跡のようだ。
越後線で貨物輸送を行っていた時代には関屋駅から直接貨車が出入りしていたらしい。
2006年の関屋駅の橋上駅舎化後も貨物側線の後は残っている。たまにマルタイとかがいたりする。

さらに、風のうわさレベルの情報だが、新潟交通電車線開業時はこの引き込み線まで電車を甲種輸送し、電鉄の東関屋駅へ運び込んだ・・・「らしい」。
確かに東関屋駅までは近いし、引き込み線の目の前は電鉄の線路だ。

2.ここまでの情報のまとめと謎

さて、ここまでの情報やネット情報をまとめると。

年代出来事情報源
1913年
(大正2年)
越後鉄道 関屋駅開業ウィキペディア
不明1939年(昭和14年)にできる大協石油の
前身となる工場ができる?
引き込み線敷設?
1931年
(昭和8年)
新潟電鉄開業
4/1 東関屋~白根
7/28 県庁前~東関屋
8/15 白根~燕
ウィキペディア
1939年
(昭和14年)
新潟県下の精油業者8社が合同の上、
新会社の商号を大協石油株式会社として設立
(後のコスモ石油)
『コスモ石油20年史 
飛躍へのかけ橋 
コスモ石油・革新の軌跡』
コスモ石油株式会社、2006年
1946年
(昭和21年)
大協石油新潟製油所を
歴世礦油昭和瀝青工業株式会社が買収
歴世礦油株式会社HP
1950年
(昭和25年)
歴世礦油株式会社に社名変更 歴世礦油株式会社HP
1982年
(昭和57年)
関屋駅貨物扱い廃止
この時までには引き込み線の使用終了?
ウィキペディア
1985年
(昭和60年)
引き込み線の撤去確認関屋自動車学校
パンフレットの航空写真
1996年(平成8年)新潟製油所閉鎖
(後に関屋ショッピングセンターとなる)
歴世礦油株式会社HP

今回、検証したい謎は

新潟交通開業時、電車はどこから搬入したのか。
本当に関屋駅からの引き込み線から入れたのか。

それに付帯して

引き込み線はいつからあったのか。
引き込み線と電鉄は繋がっていたのか、陸送したのか。

となる。
ゆるっと調べてみた。

3.線路はつながっていたのか

ネットを徘徊していると興味深いブログを発見
にいがた文明開化ハイカラ館
そのなかに直接専用線とは関係ないけど関屋界隈の記事がありました。
新潟電鉄物語ー②塩の橋(塩之橋)

そこから画像を引用させていただきます。
昭和37年の古い地図があり、そこには関屋駅から分岐する専用線がバッチリ書かれていました。

昭和37年「新潟市」地図より。

関屋駅から分岐する専用線があり歴世鉱油の記載あり。
んんん!?
専用線と電鉄の線路が繋がっている!?
工場へ引き込んで終わりではなかった!?
気のせい!?

ついでに対岸の日本軽金属専用線や今はなき関屋競馬場、第一高校ができる前は硫酸会社なんてところも興味深いですね。

先の画像よりおよそ10年遡ります。昭和28年「新潟市」地図より。

昭和28年「新潟市」地図より。

歴世鉱油の記載は無いですが引き込み線は描かれています。
やっぱり電鉄と繋がってる!?

もう少し遡って、昭和24年「新潟市とその周辺」(日本交通公社刊)より

昭和24年「新潟市とその周辺」(日本交通公社刊)

こちらは広域なので参考で。
引き込み線はやはりこの時点でも存在します。
しかし繋がっていないようないるような・・・。
どちらかと言うと旧白山駅とかの方が気になります。

4.現状ではなんとも言えず

昭和24年の段階で引き込み線があることは確定。
しかも、電鉄の線路との接続を匂わせる地図もあったが、これは未確定。

5.航空写真

いい時代になりました。国土地理院の地図を自宅で見放題なんて。
しかも、過去の航空写真も見られるスグレモノ。

地理院地図でタイムトラベル! ~過去から現在までの空中写真を簡単切替え~
https://www.gsi.go.jp/johofukyu/johofukyu210322.html

というわけで早速見てみましょう。

まずは1974(S49)~1978(S53)年から。
関屋駅の貨物取り扱い終了が1982年なので末期といえば末期。
新潟交通の東関屋~県庁前も現役の時代になります。

地理院地図(電子国土web)1974~1978

新潟硫酸の工場は更地になっています。
ここは1978(S53)年に新潟第一高校になります。
引き込み線には貨車が見え、写真の時点ではまだ現役の模様。
しかし、引き込み線と新潟交通の線路は繋がっていなさそう。

遡って1961(S36)~1969(S44)年頃の写真です。

地理院地図(電子国土web)1961~1969

新潟硫酸の工場が現役で沢山の建物が建っているのがわかる。
左上は競馬場か。
この写真でも引き込み線と新潟交通の線路は繋がっていなさそう。

最後は1945(S20)~1950(S25)年頃。
戦後間もなくの時期。

地理院地図(電子国土web)1945~1950

建物がだいぶ少なく感じる。
先の地図と同様にこの時期には既に引き込み線が確認できる。
画像が荒く拡大しても見にくいが、引き込み線と電鉄は繋がっていなさそうだ。

6.謎は謎だが

今回の謎

新潟交通開業時、電車はどこから搬入したのか?
本当に関屋駅からの引き込み線から入れたのか?

に関しては、核心には辿り着けなかった。

付帯の疑問

引き込み線はいつからあったのか?
引き込み線と電鉄は繋がっていたのか、陸送したのか?

に関しては、

昭和20年代前半には既に引き込み線はあったが、その時点では電鉄との接続はない模様。
こちらも戦前までは辿り着けなかった。

7.今後の展望

引き込み線はいつからあったのかについてはもう少し調べられそうだ。
新潟大学附属図書館で大協石油の社史があるようなので読んでみたい。
1931(S8)年の新潟電鉄開業時はまだ大協石油はなく、前身の企業の時代なのでそこまでたどり着けるかは怪しいところである。

個人的な予想ではあるが、日車東京で製造された電車は1929(S6)年に全通したての上越線を通って新潟県へ。

東三条~(弥彦線)~吉田~(越後線)~関屋。
引き込み線から新潟交通の線路まで仮線路 or 陸送で搬入。

もしくは4/1の東関屋~白根開業から遅れること4ヶ月半後の8/15 白根~燕開業に向けて、全線、線路だけはできていて燕から電鉄線を走ったか。

いずれにせよ、想像の域を出ないが歴史ロマンを感じてしまう。
今回はほぼ卓上調査だったので図書館で古地図漁ったりしてもう少し調査を進めてみたい。

しかし、もしも引き込み線が新潟交通と繋がっていて、その後も利用されていたら
旭川電気軌道で有名なこんなやつも新潟で見られたかもしれない。

「Cedarの今昔写真日記」様の2012年2月2日のブログより引用
https://cedarben.blog.ss-blog.jp/2012-02-02

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